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「がんばれ」という言葉に違和感がある

 多くの人は、「全ての言葉には意味がある」と誤解しているが、けしてそんなことは無い。

 意味が失われた言葉。

 死んだ言葉。

 そんなものは、この世に幾らでも溢れている。

 例えば、その最たる例が「がんばれ」という言葉である。

 

 この言葉を使う者の多くは、実際のところ、とくに『頑張ってほしい』と思っているわけではない。

 ただなんとなく、一定の状況(この言葉を言わなければいけなそうな状況)になった時に、反射的にこの言葉が出てしまっているだけだ。

 当然そこには深い意味など無い。

 心がこもっているわけでもない。

 

 人間は何か突然驚いたことがあると、反射的に悲鳴を上げることがあるが、それとほぼ同じである。

 

 もちろん全ての「がんばれ」がそうだと言うわけではない。

 中には、本当に心のこもった「がんばれ」もあるだろう。

 だが、割合の問題だ。

 実際のところ、我々が日常生活で聞く「がんばれ」の多くは、意味のこもっていないモノの方が多数派だろう。ということだ。

 

 

 

 同じような類いの言葉としては

 以下のようなものがある。

 「いただきます」

 「ごちそうさま」

 「永遠に離れたくない」

 「ずっと一緒」

 「(謝罪ではなくお礼としての)すみません」

 「どういたしまして」

 「こんにちわ」

 「おはようございます」

 「こんばんわ」

 「またね」

 

 私は、このような意味の欠如した言葉を使うことには抵抗がある。

 油断をするとうっかり出てしまうこともあるが、なるべくそうならないように意識している。

 

 私は、自分の放つ言葉には、

 可能な限りしっかりと意味や思いを込めたいのだ。

 

 ここまでを読んで、「そんなに難しく考えなくても」と思う人もいるかもしれない。

 まぁ確かに、「こんにちわ」や「こんばんわ」くらいなら、その指摘の通りだろう。

 

 だが、「頑張って欲しい」と思っているわけでもない相手に「がんばれ」と言ったり、安易に「永遠の愛」を誓ったりする行為には、もはや一定の不誠実さが生まれていると思う。

 


うそつき―うそと自己欺まんの心理学

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 そのような不誠実さは、私にとってあまり好ましいものではないのだ。

 

 私は、言葉に限らずあらゆる分野において、欺瞞が嫌いだ。

 私は何に関しても、少しでも欺瞞の無い生き方をしたいと思っているし、真実に近しくありたいと考えている。

 おそらくは私のそのような性質が、これらの言葉を使うことに嫌悪感を抱かせるのだと思う。

 

 

 

 参考リンク インスパイアを受けた記事

 「食事前に手を合わせて『いただきます』」に違和感がある